わたしの小説新潮日記

小説新潮の感想を中心としたブログです

石井光太「いのちの家『こどもホスピス』をめぐる物語」(第2回)小説新潮2019年8月号

 2016年4月に日本で最初の民間の小児ホスピス「TSURUMIこどもホスピス」が誕生します。この作品は、その「設立までの道のりとその後を追う長編ノンフィクション」です。

 まだ、連載は始まったばかりですが、心が痛む連続です。そこで、その記憶を固定化するために、あらすじを記しておこうと思います。

 はじめに登場するのは、1983年に大阪大学医学部附属病院小児科に入局した新人医師・原純一氏(以下、敬称略)です。原はガン治療の過程で、子供の姿が点滴で別人のようになっていくことや、入退院を繰り返す過程で家族が崩壊する事例を数多く目にしていきます。

 また、“当時のガン医療の現場には緩和ケアという考え自体がなかった。日本に緩和用の薬が増えてきたのは2000年代に入ってから。小児用のそれはさらに後。小児ガンの罹患率は成人より少なく、製薬会社は利益にならないので開発しようとしなかった。また、モルヒネを子供に使うことへの抵抗感が医師にあった。想像を絶する痛みの中で子供は恨んだ眼をして死んでいくのが当時の終末期の現場だった”と述べています。

 もう一人、原とともにTSURUMIこどもホスピスの設立にかかわることになる医師が登場します。新生児医療が専門の多田羅竜平(たたらりゅうへい)氏(以下、前同)です。多田羅は30歳の時(2000年)に「母子保健総合医療センター」(現・大阪母子医療センター)」にポストを得ます。同センターは未熟児の生存率が当時世界一といわれていました。

 NICUに運ばれてきた子供は救命することが最優先です。しかし、多田羅は助けられなかった子供や苦しむ親を見て、次第に自分を見失います。

 多田羅はある最重症型の「先天性表皮水疱症」の子供を助けられませんでした。遺体の前でその母親から「先生、この子は何のために生まれてきたのでしょうか。命を授かってからずっと苦しいことばかりで、何か一つでも生まれてよかったと思うことはあったんでしょうか」と聞かされます。

 多田羅は、“NICUでは10人に1人が亡くなる。医師には9勝1敗のような感覚があった。だから1敗の悔しさで9勝しようと考えていた”といいます。でもこの子の死を見届けたときに、“1敗の子にも人生があるということ、この子にも本来は短い人生を精一杯充実させてあげることが大切なんじゃないか。それを医者の理屈で1つの失敗だったみたいに片付けてしまうのは間違いなんじゃないか”とこの子の死をとおして、自分の医療への疑問が決定的になったと述べています。

 また、闘病生活から生還しても、病気や治療による様々な障害が残ります。小児医療の世界では「晩期合併症(晩期障害)」というようです。

 原は、“治療を終えて社会に戻ったあとも、身体障害、病気のリスク、社会的孤立の問題を背負って生きていく”ことの困難さを語っています。さらに、原は、“難病から復帰した子供の自殺率の高さは、健康な子供に比べて10倍ぐらいある”と感じています。

 40代となった原の病棟に横紋(おうもん)筋肉腫を患った3歳児が入院してきます。幼児にとって抗がん剤の副作用は想像を絶するほどつらいものだといいます。この子は次々に襲ってくる痛みや苦しみに泣きじゃくりますが、ガンの転移を抑えきれず、余命数ヶ月となります。今後の治療方針を両親に相談すると、両親は“助からないなら一緒にいてあげたい、家で看取ってあげることはできないか”と思いを伝えます。20年以上医師として働いてきて、初めて耳にする言葉に声を失ったといいます。

 この子はテーマパークに行くなど楽しい経験をし、余命宣告から3か月後に亡くなります。

 原は“10人中3人を救えなくても、その3人が持っている残された時間をできるだけ素晴らしいものにしてあげられたら、勝率を10割にできたと同じじゃないか”と気づいたところで第2回目が終わります。

 こどもホスピスができるまでに、まだまだ幾度も困難が待ち受けていることが容易に想像できます。この作品を読むのはつらいですが、目を逸らさず読んでいこうと思います。