わたしの小説新潮日記

小説新潮の感想を中心としたブログです

中脇初枝「川にすむ神は水にくすぐられてわらう」(最終回)小説新潮2014年9月号

 この作品は2014年6月号から2014年9月号までの4回の集中連載で、今月号で最終回を迎えました。作品は主人公「さわ」の内面描写が強烈なので、本来なら単行本で一気に読む方が作品の良さが引き立つと思いました。内面描写が強烈な作品は一気に読まないと緊張感が分散してしまい、味わいが薄れてしまいます。そのため、月刊誌に連載するなら短期の集中連載は妥当だったと思います。 

 物語は、高知の山奥の集落で暮らしている両親がいよいよ山の麓(ふもと)に引っ越すことになり、最後の夏を両親と過ごすために、1年ぶりに帰省してきたという設定です。 

 引っ越しの準備がほとんど整っている両親の家に戻ってきて、さわが少女期を過ごした我が家での追想が描写されます。幼少期にピアノの才能を見い出され、周囲の期待を受けながらも結局、ピアニストになれなかった挫折体験、幼少期を指導したピアノの先生自身の指導の誤りの苦悩の告白、これまで過ごした集落での風習や母親と隣の「おんちゃん」との結ばれなかった恋など、さまざまな描写があります。 

 さらに、帰省したこの夏に、幼馴染で同級生の「ひかる」の長男で中学生になった「りょう」にさわはずっと情欲していて、ついにりょうと屋根裏でセックスをしてしまうモチーフを描きます。描き方は暗示的で露骨な表現はありませんが相当に特異です。これは第1のモチーフであるといってよいと思います。最愛の夫「ともくん」、一人娘の「みやび」を愛しているのに、りょうに情欲してしまうさわをどのように理解したらよいのでしょうか。一方、りょうにしても中学生になったばかりで、自分の母親の同級生で、しかも、自分を小学生の時から知っている「さわさん」に性愛感情を抱いてしまうことはありうるでしょうか。 

 作品は1人称で語られています。もっと感覚的にいうと“ゼロ人称”です。そのため、さわの視界がそのまま読者の視界と重なってしまう感覚を覚えます。作品の視点が1人称(ゼロ人称)であることと、特異なモチーフであるため、さわの女の匂いや息遣いが至近距離で感じられ、息苦しさを覚えるほどです。 

 しかし、作品の舞台を高知の山奥の渓流に置き、夏の涼感をたっぷり描写していることと、高知弁を織り交ぜ、ローカル感を醸し出しているため、このモチーフの特異性が不思議と希薄化しています。ここでは音楽も使われていますが、きれいな背景を描きながら特異な感情を繊細に描くのは作者の作風でしょうか。 

 作品が夏に連載されたことが涼味を一層引き立てたと思います。また、高知弁というとお馴染みの坂本龍馬の「○○ぜよ」をすぐにイメージしますが、活字だけでみると、出雲弁に近い印象を持ちました。(たぶん、それぞれのご当地の人から見ればイントネーションは全く違うのかもしれません。)私は風景描写や高知弁の感覚には大いに共感しました。ただし、このモチーフについては、こんなことが現実にあるのか理解できませんでした。この辺の感覚は読者の性別や年齢、社会体験で理解や好みは相当に分かれると思います。 

 第2のモチーフは、さわがピアニストになれなかったことをあげていいと思います。りょうがさわのピアノに憧憬する描写など、それなりに第1のモチーフに絡めていますが、第1のモチーフを補完しているわけではありません。ピアニストが誕生するまでに多くの落伍者がいて、多くの悲しみや人生ドラマがあることをさわに即して描くことが目的のようで、それほど第1のモチーフに絡めることは意図していないように感じられました。ただ、私の好みから言えば、もっと絡めてもよいと思いました。 

 作品タイトルの「川にすむ神は水にくすぐられてわらう」は、ラヴェルの「水の戯れ」の楽譜の冒頭に書かれたレニエの詩だそうです。ラヴェルの「水の戯れ」は、本来ならば全編を流れる最重要モチーフだと思うのですが、りょうへの特異な感情の方がインパクトが強いので、補足的な意味合いしか感じられませんでした。 

 改めて一気に読むとまた違う印象や発見があるかもしれませんが、第1のモチーフは作者の妄想が過ぎるのではないかと思いました。もし、さわの感情が女性に普遍的に潜む感情だとしたら・・・う~む、やはり理解不能ですね。