わたしの小説新潮日記

小説新潮の感想を中心としたブログです

佐々木譲「獅子の城塞」(最終回)小説新潮2013年6月号

 この作品は2012年2月号から2013年6月号までの17回にわたり連載されました。主人公は戸波次郎左(となみじろうざ)。近江の穴太衆(あのうしゅう)の親方の次男です。穴太衆は安土桃山時代に活躍した石工集団で、安土城の石垣をはじめ全国の城の石垣積みを手掛けたといいます。安部龍太郎の「下天を謀る」でも藤堂高虎の築城で重用される場面が何回か出てきます。 

 物語は次郎左が信長からヨーロッパ様式の城塞建築のために石積み留学を命じられるところから始まります。作品の前半部分は次郎左が天正遣欧少年使節団の随員となっています。もちろん、史実ではありません。後半は中世ヨーロッパ各地での石積み修行を描いています。 

 作品は次郎左の中世ヨーロッパ石積み修行記の部分をメインにしながら、浅井長政の家臣だった瓜生(うりゅう)小三郎、勘四郎兄弟が職業軍人としてヨーロッパを転戦していく部分と日本の政情の3つを絡めて、大きな視野で構成されています。私は連載当初から作品のスケールの大きさに魅了されていました。 

 以下、少し長くなりますが、中世ヨーロッパの地理と歴史を私の中で少し整理するために、次郎左の半生を年代順に記録してみます。なお、瓜生兄弟の転戦記でもいろいろな都市と戦争が出てきますが、ここでは省略します。

 

天正9年1月(ユリウス暦・旧暦1581年2月)  信長から石積み修行のために西南蛮に派遣する旨が決定。その日以来、留学の準備で安土のセミナリオ(神学校)でラテン語、数学、自然哲学を学ぶ。次郎左 22歳。

 

天正9年8月  イエズス会巡察師バリニャーノ神父が西南蛮に帰る船に同船し西南蛮へ出立。まず堺へ。堺ではザビエルの助言で穴太衆によって二重に石垣が積まれた水壕を見る。初めて見る南蛮意匠の水壕に興奮する。堺から長崎にむけて南蛮船で移動。瓜生兄弟がバリニャーノ神父の用心棒として同船。

 

天正9年9月6日  豊後(ぶんご・大分県)の臼杵に到着。キリシタン大名大友宗麟の居城を見るも、西南蛮仕様の城ではなく落胆かつ安堵。臼杵滞在中にノビシャド(修練院。セミナリオより上級の学校)で学ぶ。瓜生兄弟とは臼杵で別れる。

 

天正9年9月末  島原の有馬(長崎県)に移動。

 

天正9年10月  島原に到着。4人の遣欧少年使節と引き合わされる。

 

天正10年1月28日(ユリウス暦・旧暦1582年2月20日)  天正遣欧少年使節団一行は長崎から西南蛮へ出航。物語では次郎左はアグスチーノと呼ばれる日本人少年従者が現れないので急きょ「アグスチーノ」の代役でそのまま「アグスチーノ」として少年使節団の従者とさせられます。史実ではアグスチーノは印刷技術習得要員として乗船しています。また、彼らは日本にグーテンベルグ印刷機を持ち帰って、日本で初めて活版印刷を行っています。

 

1582年3月(旧暦)  マカオ(当時ポルトガル居住区:中国)到着。その間に、父・市郎太(いちろうた)が家康から西南蛮仕様の石造りの城の普請を次郎左が請け負う約束をする。

 

1582年12月31日(旧暦)  マカオ出航。(同年10月5日に新暦グレゴリオ暦に変更。新暦10月15日付)

 

1583年1月27日(旧暦)  マラッカ(当時ポルトガル領:マレーシア)到着。(マラッカ出航の記述はない)

 

1583年4月(旧暦)  コチン(インド)到着。

 

1583年10月30日(旧暦)  コチン出航。

 

1583年11月11日(新暦11月21日)  ゴア(インド)到着。大路と石造りの街並みを見て驚嘆。バリニャーノ神父はアジア管区長としてゴアに残る。代わりに引率するのはヌーノ・ロドリゲス神父。以降、作品では新暦で表記。

 

1583年12月20日  ゴア出航。コチンからインド洋を横断し、喜望峰を回ってセントヘレナ島(現イギリス領。当時はポルトガル海上航路の補給基地)へ。なお、当時のアフリカではモザンビークポルトガルの唯一の植民都市です。当時、喜望峰を回るためにはモザンビークに寄港するのがルートとなっています。一行の帰路ではモザンビークに6か月間季節風待ちのために滞在している記録があります。(松田毅一監訳 『十六・七世紀イエズス会日本報告集』(同朋舎出版 1987年)他)また、モザンビークといえば、信長の黒人家来の「弥助」はモザンビーク出身と考えられています。(「世界ふしぎ発見!」TBS 2013年6月8日放送)

 

1584年6月頃  セントヘレナ島出航。

 

1584年8月11日  リスボンポルトガル)到着。次郎左25歳。フェリペ2世(イスパーニア兼ポルトガル国王)の名代、アルベルト・アストリア枢機卿がリベイラ宮殿で一行を歓待。

 

1584年9月5日  リスボンを出発しローマへ向かう。途中、マドリッドでフェリペ2世に謁見。

 

1584年11月26日  マドリッドを出発。

 

1585年1月19日  アリカンテ(スペイン)港を出港し、軍艦でリボルノ(イタリア:トスカーナ大公国の軍港)へ。2日後にピサへ移動。一行はトスカーナ大公フランチェスコ1世の宮殿に宿泊。5日後にフィレンツェ(イタリア:トスカーナ大公国の首都)のベッキオ宮殿で歓待。そこでベルナルド・ブオンタレンティ(メディチ家のお抱え建築家)と知己となる。

 

1585年3月22日  ローマ市内に到着。

 

1585年4月3日  一行はグレゴリオ13世に拝謁。信長からの屏風絵を教皇に披露。

 

1585年5月6日  遣欧少年使節団は帰路に就く。次郎左はローマに留まりいよいよ石積みの修行が始まる。

 

 ここまでが作品の前半部分といってよいと思います。いよいよ後半部分です。

 

1585年末頃  ゴア滞在中に知己を得た石積み親方に紹介されたフィリッポ・コレッリ親方のもとに弟子入り。以降、サンピエトロ大聖堂の石積みに従事。コレッリの監督はサンピエトロ大聖堂次席建築家フォンターナ。フォンターナの下で測量、製図を習得。

 

1588年3月  サンピエトロ大聖堂の円蓋(クーポラ)取り付け作業に従事。主導的役割を果たす。次郎左27歳。同僚アントニオ・イモラの讒訴により異教徒尋問の難をさけるためにローマを脱出。ルチア(後に結婚)を同伴。フィレンツェに向かう。

 

1590年6月  フィレンツェでブオタレンティの助手として働く。フィレンツェのサンタマリア要塞とリボルノの城壁造りに従事。

 

1595年9月  リボルノの街を囲む稜堡(りょうほ)様式の城壁と環濠が完成。(稜堡:城壁や要塞の外に向かって突き出した角の部分。西洋に見られる城塞様式。防御能力が格段に増す。)

 

1595年末  石工組合の組合員として認められる。

 

1596年3月  ネーデルランド(オランダ)出身の石積み工・ピデールの誘いを受けて一家でネーデルランドへ出発。

 

1596年  ザルトボメル(ネーデルランド:オランダ南部の町)で城壁普請。ザルトボメルはイスパーニア軍と交戦中。

 

1599年6月13日  ザルトボメルの城壁がイスパーニア軍を撤退させる。

 

1600年8月  フロール(オランダ:ネーデルランドの町)で城壁普請。

 

1603年11月  フロールを離れオースデンテ(ベルギーの都市:スペインと包囲戦の最中)に攻城戦とそのための最新の築城術を視察に来た。オースデンテには瓜生兄弟が従軍している。瓜生兄弟と22年ぶりの再会。視察には息子のトビアを連れてきた。「穴太積み」で城壁の補修を手伝う。

 

1604年  アムステルダム(オランダ)に移住。

 

1606年  ザルトボメルの城壁の築城家アントニスゾーンの誘いでフラーフェ(オランダ)に単身赴任。普請が中断する冬にアムステルダムに戻る生活を4年続ける。

 

1610年  ヘレブートスライス(オランダの都市)で城壁の設計。築城家としての初仕事。

 

1611年  ヘレブートスライスの普請が始まる。礎石の一つに「丸の内二引き」の家紋を刻む。

 

1612年春  フレーリ(オランダの都市)城壁の設計と普請の監督。

 

1612~13年頃  フレーリ城壁完成。日本では戦乱が終わりエウロパ様式の町も城塞も必要なくなったことを知らされる。

 

1612年頃?(年数やや合わず)  ブレダ(オランダ南部の主要都市)の王冠堡の設計と職人頭として従事。

 

1613年  ブレダの王冠堡普請完了。

 

1617年夏  瓜生勘四郎の息子マルチンを弟子に採る。これは日本に帰らないことを意味していた(次郎左58歳)。因みに、長男は画家、次男は洋服の仕立屋、長女は結婚とそれぞれ独立している。

 

1622年  妻・ルチア死去。

 

1625年6月5日  ブレダの包囲戦でオランダはイスパーニアに降伏。ブレダの城塞は解放され、次郎左も城塞から出る。城塞の外に出てリボルノでブオンタレンティの助手をしていたジョバンニ・カゾーネ(イスパーニアの石積み工として従軍していた)、ローマで讒訴したアントニオ・イモラ(戦況を視察にきていた)と再会し、お互いの石積みの技量を称え合う。当時の戦場では多くの職人も従軍している。また見学者も多かったとのこと。次郎左65歳。

 

 40年間にわたるヨーロッパでの石積み修行の人生でした。徳川の天下となり戦乱が終結したことにより築城の需要は急速になくなっていきます。この40年の間に日本に帰る目的が失われ、ヨーロッパに永住することを決意し物語を終えます。 

 結局、日本にヨーロッパ様式の稜堡(りょうほ)を持つ城塞ができるのは幕末の函館五稜郭まで待たなければなりませんでした。もし、稜堡をもった城塞が日本の戦国時代にあったらと想像するとワクワクしますね。 

 長い間、素敵な作品をご提供くださり、ありがとうございました。